わかるよ、だからね
045:もう歩けないと立ち止まって、其処に一体何があるというの
「あの狸親仁ッ!」
珍しく憤った声を上げてから空き缶を蹴り飛ばす葵を葛は後ろから眺めていた。二人は珍しく連携での任務遂行を命じられ、完遂した帰りだ。その任務がまた後味の悪いものだった。密偵や情報操作ならまだしも二人の戦力が投入された先に待っていたのは暗殺だった。目の前で人が死ぬ。自分たちが標的を死に行くように追い詰めて行っていた。二人がそれに気付いたのは全てが済んだあとだった。血臭が混じり合っているような気がした。発展の途中にあるこの土地において人死になどいくらもある。路地裏に生まれた浮浪児であればなお、子供の目で人が死ぬのを目の当たりにするほどだ。葛はそっとけばけばしく瞬く電飾の飾りつけられた看板にもたれかかった。葵がいつになく荒れている。
二人とも驕っていたわけではない。あらゆる任務の中心に据えられるだけの実力があるなどとは思っていない。端役でかまわぬ。だが問題はその端役が成した役割だった。葵は人が死ぬのを嫌う。特に目の前で死なれた日など始末に負えぬほど荒れに荒れた。今のこれはその時に匹敵するかもしれないと葛は黙って葵の好きにさせている。ぢゃりっと耳障りな音を立ててきらりと飛んでいくものがある。ナイフを切り滑らせて開けた瓶を葵が呷っていた。呑み口は鋭利で危険だが葵は浴びるように飲んでいる。口から溢れて服を汚す分さえかまっていない。仰け反るように呷り呑んでは口元をお愛想に拭う。
「納得なんかできるか! 何が、君たちはいろいろ役に立っているねぇ、だよ! そんな役なんか立ちたくもねェよ!」
振り向きざまにびしっと指をさす葵の手に握られているのはどこから調達したか、酒瓶だ。
「葛ちゃんはどーなんだよ。狸親仁に言われるままにハイハイッて言えるってのか。オレはやだね」
「この仕事に就く際にその覚悟は問われているし俺は俺なりの返答をしたつもりだ。その上での戦力計算の結果であれば俺が言う言葉はない」
「あれを見といてよく言えるよなぁ」
標的の暗殺。あくまでも事故に見せかけなければならなかった。補助的とはいえ役割を与えられて二人でこなした。葵の方が直接的な能力であるからより実践的であった。葵が標的を弾き飛ばした先に謀ったように馬車が駆け抜けた。馬が暴れ出したものであったらしく御者は不在。蹄と車輪に蹂躙されて標的は物言わぬ肉塊になった。騒ぎにはなったが葵も葛も通常の人が手を出せる範囲内にはいなかった。野次馬として結果を確かめる。
「あれは、オレ達がやったんだ。オレ、た、ちが」
葵が壜を放り出して口元を手で覆うが遅い。咄嗟に壁際へ顔を向けたのが救いか。派手な音をさせて葵が嘔吐を繰り返す。葛も苦い顔をする。標的はありとあらゆる骨を砕かれぐったりと腐臭と血臭を纏う肉塊になっていた。それをそうした原因が、自分たちにあると、言うこと。喉の奥が苦いような酸っぱいような味がした。
だが自分たちの立場にあの任務は嫌だどうだという権限はない。使われる歯車である。だめになったら取り換えられるだけだ。だからこそ自分たちは強くなければならない。強くないと――二人はともにいることさえも難しい。
「大丈夫か。調子に乗って酒など飲むから…」
吐瀉物で汚れた手を葛がハンカチで拭うがシャツまで汚している。焼け石に水だ。葛はため息をついてから葵の腋下から腕を通して体を支えると歩きだす。不快な味を口の中で味わっているだろう葵は時折咳き込んだが吐瀉もせず、葛に導かれるままに歩いた。
ついた先は公園だ。広場と言っていいかもしれない。中央に据えられた噴水は路地裏であることを忘れさせるように正常で透明な水を循環させている。周りのベンチや茂みから仕事をする気配や物音がする。路地裏では売れるものは何でも売る。体を売ることに男女差はないし、非合法な薬のやり取りも行われる。葛は容赦なく葵を噴水の中へ叩きこんだ。頭上からの流水が葵の服の汚れを落としていく。全身ずぶぬれにされてぽかんと葵は座り込んでいる。靴の中や耳裏まで濡らしたまま葵は無垢に葛を見つめている。
「…え…もうちょっと優しくても罰、当たらないと思うけど…」
「それ以上文句を言うならシャツを脱がせる。吐瀉物を洗い流せ」
葵は無言でシャツを脱いだ。小奇麗な身なりだ。重労働による骨格の歪みや筋肉の不均一な発達もなく、葵の性質そのままのように伸びやかだ。下手なりに楽器もたしなむから頤が少し対称性を崩しているくらいか。葛は葵の脱いだシャツを受け取ると吐瀉物まみれのそれを噴水の中の水に浸してざぶざぶ洗った。その傍らで、茫然としている葵に口もすすいでおけと指示する。葵は言われるままに手ですくった冷水で何度かうがいをした。嘔吐による気分不良が和らいだのか、顔色も戻りつつある。のそのそと噴水から這い出た葵の靴から髪からずぶ濡れである。ちょうど折りも良く汗ばむ陽気の日であったから葵は靴や衣服を脱ぎ始めた。張り付いて脱ぎにくいのか時折顔をしかめている。日向の空気を葵の素足が踏んで吐き出させる。噴水と言ってもそこが石造りなだけであたりは芝や土である。葵は土を避けて芝の上にごろんと寝転がった。葛はごしごしとシャツを揉み洗いする。組織の下層に所属経験のある葛は下働きのような経験もある。汚れは見る見る落ちて後はねぐらに帰ってからの洗濯だな、とひとりごちた。
葵は空を睨みつけるように見ていたが不意に口を開いた。
「こんなのは嫌だって立ち止まって、人はそこで何を見るんだろう。どうしてまた走りだすまでに時間がかかるんだろう」
葵にしては哲学的である。普段はそんな他者の理念や主義に疑問を呈したりしない。相手のそれを受け入れる分、自らのそれも容認されると信じて疑わない言動だ。葛はシャツを絞りながら葵の独白を聞いた。すっきりと切れあがった眦の葛の目は刃のような鋭さを宿すかと思えばぽんと可愛らしく瞬いたりもする。葵はそれを見てくすりと笑んだ。癇症的なそれは明朗闊達な葵には不似合いで、葛は目を瞬かせた。
「葛ちゃんの驚いた顔ってかわいいよな。触ったら切れそうなくらい怖いのに、壁を越えたらちっとも怖くない」
「くだらん」
ぱんぱんとシャツを上下にはためかせて雫をふるう。さてこれを着せるべきかどうしようかと葛の動きが止まる。葵は芝の上に転がったままだ。
「立ち止ったそこには何もない。だからまた求めて走りだす。立ち止ったところで見えるものなど気やすめだ。真に止まるべき位置であればなにがしかの結果を得られる」
葵の顔だけが葛の方を向いた。短く切られた肉桂色の髪が残腹に散って、前髪が額に張り付いている。そうすると存外長い前髪だ。葵の散髪も時期か、と葛は茫洋と思った。葛は前髪を一切かきあげて白い陶器のような額をあらわにする。だから多少髪が伸びても不自由は感じない。
「葛ちゃんはさ、強いね。立ち止って見つかるものなんてないって走り続けるの? もう歩けないって脱落していく人はどうするの。…――もし、オレが、そうなったら、葛はどうする?」
ふっくらとした唇が柔軟に動いて葛に刃を突きつける。葵の明朗闊達なのは確かにその性質の大部分ではあるのだが、時折相反するものを孕むように暗渠をのぞかせることがある。それは案外深くて不用意に足を踏み入れた時、葛までもが闇に呑みこまれそうになって難渋した経験がある。
「かずら。オレがもう、今のオレでいたくないって、言ったらどうする? 能力も要らない。人生を走り続けることさえ止めて立ち止まってそこでしゃがみこんで眠ってしまいたいって言ったら、どうする?」
嘆息する葛に葵がむっと眉をひそめた。我の強さを示すように凛とした太い眉筋である。葵は存外男前だ。
「俺が腕を引っ張って立ち上がらせる。そしてともに走ってやる」
葵の肉桂色の双眸が収縮して見開かれていく。
「世の中はいいことばかりではない。だがそれは俺達にはどうしようもないものだ。だからそれを上手く利用して付き合っていくしかない。その手段の一つとして俺はともに歩く人間を得ることを選ぶ」
葛は何でもないように滔々と諭す。
「立ち止って走りださない、それは停滞だ。進むことはおろか戻ることさえできないものだ。戻れないなら進むしかない。選択肢はない。盤上の遊戯ではないのだから後へ引く手などない。無様でも醜態でも、何でもいい。何かをするということはどこかしらへ進むということだ。だから立ち止ったそこにあるものなどない。何もない」
「でもさ疲れて休む時はどうなのさ」
ふわり、と葛が笑んだ。
「休んで体力の回復をはかるという行動の原理は走り続けるという原拠に基づいている。つまり立ち止っているとは言い難い」
あっははははっは! 葵の笑い声が響いた。葵はバネのように体を起こして葛にしなだれかかる。
「大好き。だから葛がオレは大好きなんだ。言うことが違うね。他の奴に訊いたらさ、なんて言ったと思う。必要なんじゃないかとか立ち止まる理由なんかないとか。でも葛の答えはオレの中で響いた。葛が言うことが正しいってオレの本能が言ってる。だからオレは葛が大好きだ」
葛は平然としている。その唇を葵は吸った。白皙の美貌の葛だが唇だけは熟れた林檎のように紅い。蜜でも含んでいるかのように艶めかしい。葛自身はそんなことには頓着せず、こう生まれついたのだからこのまま生きるだけだと言って退ける。葵の指先はすでに乾いている。芝の萌える香りを纏わせたそれが葛の唇を撫でた。日なたの匂いをさせるそれを葛は好きにさせている。男同士の睦みあいや抱擁など、路地裏にはありふれていて誰も何ともしない。葵も葛もそれを承知している。つまりは外聞を気にした拒絶は意味がなくなる。
葛も葵の好きにさせたまま動かない。撫でるのが唇から頤へ、首筋へと降りて行く。葵の唇は葛のそれを吸ってから耳朶を食み、耳の穴を抉るように潜り込ませてくる。濡れた舌先が葛の耳の穴を穿つ。葛の体がびくりと震える。
「…じゃあ、葛は立ち止まったりしないんだ。オレは時々、このままでいいのかなって思っちゃう。走っているはずがいつの間にか歩いてて、いつかその足が止まっちゃうような怖さがあるよ」
止まった先に何があるかも判らないのに
「お前が言ったろう。止まったら歩き出せばいいと。再度歩き出せばかまわないと」
葵の眼が伏せられる。案外長くて密な睫毛が影を落とす。一筋、化粧筆で刷いたように長い睫毛があり、それが葵のぱっちりとした目つきを引き立てた。よく見れば端正な顔立ちをしている。執拗さはないがくどくもない。太い眉筋や通った鼻梁。ぱっちりとした大きめの双眸。部分で見れば大きすぎるきらいがあってもそれがうまく配置されて程よく収まりを見せている。葵は間違いなく美男子に入るだろうと葛は茫洋と思った。
「なんだか綺麗な顔した葛ちゃんに言われると説得力あるねぇ」
「意味が判らんが」
「葛ちゃんは綺麗なんだよ? 眉と鼻梁の位置、切れ長の目。紅い唇。白皙の美貌って奴だね。肌理も細かいし。皮膚状態も悪くない。手入れとかしている?」
「してない」
「天然ものならなおさら貴重だね。葛ちゃんくらい綺麗な男を見たのはオレは初めてだよ」
「お前もなかなかのものだと思うが」
葵はけたたましく笑った。笑いながら涙を拭う。その涙が笑い涙でないことを葛はきっと知っている。
「ありがとう。葛に手を引かれるならオレはきっと、もう一度歩けるよ。だから、オレと一緒にいてほしい」
「愚問だ。問うまでもないな。共に暮らし任務をこなす以上、俺はお前をサポートするつもりだが」
葛の至極真面目な顔で言われて葵はたははは、と笑った。
「かなわないなぁ」
葵の目が葛を射抜く。
「もし立ち止っても葛が手を引いてくれるなら、それはオレにとって、立ち止まることが怖くないってことなんだ」
葛は真正面からそれを受けながら次の言葉を待った。
「無論だ」
葛は抱きついてくる葵の顔が破顔していることに気付いていた。
「葵は俺の手を引いてはくれないのか?」
噛みつくような激しい口付けだった。それが答えだった。洗ったシャツは芝の上に放り出され、月明かりの下で蠢く人だかりの一員に二人はなった。
葵の髪の冷たさと濡れた皮膚の冷水による冷たさとに葛の背筋は慄然と震えた。恐ろしいような人ではないものに抱かれている気になる。だがそれでもよいと思う。指先の冷たさと反比例するように葛の熱は上がっていく。それを見た葵は満足げに微笑み、時折唇を食みながら何度も何度も葛の首筋に歯を立てた。その間にも飽いた手は葛の体の浅ましさを暴き立てる。葛に抵抗はない。男が二人蠢いているだけだ。月明かりを乱反射した噴水の水流が二人をきらきらと飾り立てた。
立ち止ったそこには
オレが
俺が
いるから
また手を引いて歩かせてあげる。
だから立ち止ったっていいよ。
《了》